朝日将軍との絆を知るゆかりの地に咲く桜樹「岩屋堂観音義仲桜」信州上田

県歌「信濃の国」で「旭将軍」とうたわれる平安時代の武将・木曽義仲。兵を集めるため信濃国中を回ったことから木曽以外にも義仲公の伝説は残っています。とくに東信は有力豪族である海野氏を引き入れたことからゆかりが深く、戦勝祈願をしたという岩屋堂観音が、上田市市街地から丸子方面に向かい、依田川一帯を眼下に臨む場所にあります。約200段ほどの急勾配の参道を登ります。

参道脇には、かつて戦勝祈願に訪れた際、木曽義仲公が自ら植えたとも馬を繋いだとも伝わる樹齢800年のエドヒガンザクラ「義仲桜」が例年4月中旬桜の季節になると花をつけます。樹高40m。幹周4.6m、枝張り30mの巨木です。

石段を登ると一番上に見えるのが、戦勝祈願に参った際、参道脇の道を馬で登ったことから現在「義仲馬大門」と呼ばれています。

当山は今から約1200年前、平安時代初期の承和元年(834)、比叡山第三代座主慈覚大師円仁が信濃巡礼の折に一本の柳の木から三体の観音像を彫刻し、その時に柳の胴の部分で作った像をここに納めたのが開基です。山名の龍洞山は「柳」と「胴」に通じています。御本尊、大師御謹刻の聖観世音菩薩は約220年前の安永6年(1778)建立の堂宇に安置されています。以前は「奥の院」と呼ばれる本堂裏の洞窟中に安置されていました。

朱塗りの観音堂は、切り立つ岩山の中腹に食い込むように建っているのが特徴で、その迫力に圧倒されてしまいますが、その建物は平安の頃を思い出させるように優雅で気品があり、いつまでも見ていても身飽きることのない、真っ白な彫り物、彩色の美しい蟇股と美しい佇まいです。

2018/4/9撮影

名桜の宝庫!「一本桜の里」南信州飯田で銘桜紀行。飯田市内編

江戸時代に江戸詰の交代藩士の屋敷があったことから名付けられた江戸町には、武田信玄の息女、黄梅院姫の菩提を弔うために建立された黄梅院があります。本堂脇に植えられている「黄梅院の枝垂れ桜」は、推定樹齢約350年の紅彼岸系の古木です。飯田城主脇坂安政公が、先代である安元公の菩提を弔うために、「弥陀の四十八願」にちなんで領内四十八寺堂に植えた桜の一本とも言われています。

樹高約18m、幹周り5.5m、天に向かって真直ぐに立ち、左右に枝を張った姿はまるで冠のような樹形で気品を感じさせます。開花時の紅色がひときわ鮮やかなのも特徴で、日が経つにつれて花びらは白さを増し、そのグラデーションを楽しむのも一興です。桜花の中で最も濃い紅色は紅梅をも思わせますよ。

同じ江戸町にある正永寺は、応永15年(1408)飯田城主・坂西由政によって開基された曹洞宗の寺です。本堂脇に立つ「正永寺の枝垂れ桜」は、戦国時代、飯田城主が各寺を城の周りに移転するように命令し、ここに寺が移転、建立された文禄3年(1594)に植えられたとも、飯田城主脇坂安政公が、先代である安元公の菩提を弔うために領内に48本の桜を植えたとされる、「弥陀四十八願」の一本とも推測されます。

推定樹齢400年余、胸高周囲3.8m、高さ15mの古木は、老木のため幹の傷みが激しいのですが、どっしりとした幹は飯田の歴史の重みを伝えています。幹の片側だけに大きく張り出し枝垂れて咲く花は、まるで天空からの大瀑布のように流れ落ち、荘厳な美しさです。

江戸町の隣、伝馬町にあるのが曹洞宗のお寺「専照寺」です。通りから細い参道を入った所にあります。屋根の上に鐘楼が乗っている珍しい山門をくぐります。正面には釈迦牟尼仏を覆うようにしだれる推定樹齢400年の古木が「専照寺のシダレザクラ」です。慶長8年(1603)、城主小笠原氏の帰依により現在地に移転され、その時に植栽されたと推測されています。胸高周囲4.5m、樹高10mです。

愛宕町にある「愛宕神社の清秀桜」は、樹齢約780年、胸高周囲6.7m、高さ10mの巨木で市内最古、県内でも屈指の老木のエドヒガンザクラです。仁治元年(1240)、愛宕城が長姫城に移った跡地に建てられた、地蔵寺の清秀法印がこの桜を植えたといい、悠久の時を越えてきた深みのある美しさが感じられます。花びらが濃いピンク色をしているのが特徴です。

また境内には、昔境内でお店をしていた千代蔵さんが植えた「千代蔵桜」と呼ばれる一本桜もあり、一緒に楽しめますよ。

2017/4/14撮影

 

座光寺の日本唯一の半八重彼岸枝垂れ桜「麻績の里 舞台桜」信州・飯田

南信州飯田市座光寺・元善光寺の近くに、石段を上ると、古き良き時代の面影を残す手入れが行き届いた木造校舎があり、その校庭に樹高8mのところから地面につくほどに伸びた枝を持つ、樹齢約400年の桜が出迎えてくれます。

薄紅の花びらが風にそよぎ、横に長く伸びた枝は、垂れないように添え木があてられています。それが「麻績の里 舞台桜」です。「麻績の里 舞台桜」は、5つの花びらの中に雄しべが花弁に変化した「旗弁」があり、花びらの数が5~10枚と定まらないのが特徴で、平成17年に新種と断定された「半八重枝垂れ紅彼岸桜」との呼び名を持ち、飯田下伊那でも人気の高い名桜の一つです。

名の由来となった旧座光寺麻績学校校舎は、明治7年に建てられた県下最古の学校建築で、2階が校舎、1階が歌舞伎舞台として使用されていました。

建物の黒い屋根瓦とのコントラストが、その美しさをさらに際立たせているようで、南アルプスの眺望も美しいです。

麻績の里 石塚の桜」は麻績の里舞台桜のすぐ近くにあり、石塚一号古墳の上に立つシダレザクラです。樹齢は250年、樹高は約15mで、根元には古墳の横穴があり石室が納まっています。小高く盛られた半円形の古墳の上で、まるでこの古墳を守るように
枝垂れた枝が包んでいます。

信州の郷愁誘う「学校」の空間を残す木造校舎と桜の風景!信州・飯田「杵原学校のシダレザクラ」

中央自動車道・飯田山本IC下りてすぐ、国道153号から少し入った飯田市佐竹に、木造平屋建ての校舎(旧山本中学校)を背に、均整の取れた枝が広がる一本桜が「杵原学校のシダレザクラ」です。かつて子供達を見守った桜は、今もまるで両手を広げ、子どもたちを包み込むように咲き誇り、地区住民を眺めながら佇んでいます。

校舎は杵原学校と呼ばれ、昭和24年(1949)竣工、昭和60年(1985)廃校となるも、平成17年、戦後の建物としては全国初の国登録有形文化財に指定されています。学校は南北2棟の建物が渡り廊下でつながれ、板張りの長い廊下や木製の窓枠、寄棟造りの瀟洒な玄関ポーチなど昭和中期の懐かしい姿を留めています。

この佇まいに目をつけた山田洋次監督、吉永小百合主演の平成20年公開、映画『母べえ』や続く平成27年公開の『母と暮らせば』のロケも行われました。撮影当時のまま黒板が残っている教室や校舎内が見学できます。

 

中央アルプスを背に遅咲きの花を咲かせるエドヒガンザクラ「中曽根の権現桜」信州・箕輪町

中央自動車道伊北ICを下りてまずは箕輪町中曽根のエドヒガンザクラを訪れます。中曽根公民館の北にある樹齢1000年といわれる見事な一本桜の老木です。木の根に熊野権現が祀られていることから「中曽根の権現桜」とも呼ばれています。県内のエドヒガンの中で3指に入る大きな木です。

樹高約13m、根元の周囲約8mの大木で、薄紅色の小さめの花が盛んに咲き誇ります。根元から2つの大枝が東西に分かれていて、夫婦桜とも言われ、開花時期のずれからか一方は紅色、他方は白っぽく花の色が違っているようにも見えます。晴れていれば中央アルプスの雄姿とともにその姿を眺められますよ。地上1.3mの部分から枝分かれし、一方は紅色、他方は白っぽく見えることから「夫婦桜」とも呼ばれています。

 

平家落人伝説の山里に大輪の花を咲かせる三重県南伊勢「横輪桜」

現在の横輪町は、昔勢州伊勢の国・覆盆子谷(一宇郷)と言われた平家の谷と知られている。1185年、平清盛の四男・知盛は兄弟の中で最も勇ましい武士であったが、壇ノ浦の戦にて源氏に敗れ、自害したと伝えられているが、確かな証拠はなく、従者30人と共に平家の再興を願い、南海より伊勢の船江に上陸し、伊勢平氏の所縁により、外宮の長官・横地光忠の保護を受け、前山から鷲嶺の険しい山を越え、この地に隠れ住んだと言われており、地元には平家の落人伝説が多く残っている。横輪町は今では見かけなくなった懐かしい日本の原風景がここにあり、南北を山に囲まれ、その中ほどを横輪川が蛇行する典型的な山里です。「横輪桜」は横輪町にのみ存在することからこのように呼ばれています。

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この桜は今から約150年前、江戸時代後期に地元の弘化山桂林寺にあったものを、村人が各家に持ち帰り増やしたものとされている。大きな特徴はおしべが変化し、花びらとなり 開花と同じくして葉も付き始めることです。開花時期はソメイヨシノより数日遅れ、花の大きさも2~3倍大きく濃いピンク色の大輪が年を重ねるごとに増え、15年くらいたつと12枚ほどの花びらをつけるものもあるとのことです。

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太閤秀吉の行った壮大な醍醐の花見に思いを馳せる。京都醍醐「太閤のしだれ桜」

京都における桜の名所の一つ、世界遺産・醍醐寺はあの豊臣秀吉が慶長3年(1598)「醍醐の花見」を行ったことでも良く知られており、「花の醍醐」と呼ばれていて、広大は境内には約1000本の桜が咲き乱れ、桜の名所100選にも選ばれている。
醍醐寺は醍醐山全山を寺域とする京都屈指の大規模寺院で、真言宗醍醐派の総本山である。伽藍は山上の上醍醐と山下の下醍醐に分かれ、80余の堂塔が立つ。貞観16年(874)に修験道中興の祖である理源大師・聖宝が上醍醐に草庵を結だのが始まりであり、豊臣秀吉が再興した。平成6年(951)世界文化遺産にも登録されている。

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山門から桜並木の長い参道に迎えられるという贅沢さである。参道の左手には三宝院、右手には霊宝館があり、参道を進むと仁王門が現れる。三宝院の向かいに延びる霊宝館入口沿い参道の両脇には桜が満開。

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参道左手の塔頭は醍醐の花見の中心として行われた「三宝院」である。醍醐寺の塔頭の一つで、定賢、義範、範俊の三人の師から法を授かった醍醐寺第14世座主・勝覚僧正が永久3年(1115)に創建したもので、その後、鳥羽法皇の御願寺になる。そんな三宝院の玄関脇には見事な”大紅しだれ桜”がある。それが「太閤のしだれ桜」で、JR東海CMで撮られているのである。奥村土牛画伯の代表作「醍醐」のモデルになった桜でもある.

 

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見応えある桜並木が続く名古屋随一の桜の名所愛知「山崎川四季の道」

名古屋市内の主要な川の一つである山崎川は、全長13.6KM、流域面積は26.6KM。千種区の北東部にある猫ヶ洞池を水源とし、途中昭和区で五軒家川が合流し港区の名古屋港に注ぐ。山崎川は造られた川ではなくもともとあった川で多くの歴史がある。「山崎川」は「日本の桜名所百選」に選ばれた桜の名所です。

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石川大橋から南にかなえ橋がありここから鼎小橋を望むと川に桜並木がせり出し見ごたえがある。鼎小橋は木製の橋でこのあたの桜は樹齢のいっている古木が多く見ごたえがる。

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文学作品の舞台にもなった夙川の桜ロードを歩く!兵庫西宮「夙川公園」

古くから多くの文人が好んで住み、数々の文学作品の舞台になった閑静な住宅街・兵庫県西宮市。この町を南北4Kmに渡って流れる夙川には、「日本さくら名所100選」に選ばれている夙川公園が整備されており、春、夙川沿いの桜並木が一斉に咲き誇ります。

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兵庫県西宮市の閑静な住宅街を流れる夙川沿いが、4月美しい桜並木に変身します。日本さくら名所100選に選定されている夙川河川敷緑地とも呼ばれる「夙川公園」。南は阪神香櫨園駅から北は阪急苦楽園口駅間の全長約3KM、約2300本の桜が一斉に咲き誇り、うららかな春の陽射しを浴びて川面を薄紅色の染める姿が格別なのです。

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ソメイヨシノやオオシマザクラに混じって「夙川舞桜」という夙川周辺のサクラから自然交配によってできた西宮生まれのオリジナル桜があり、探してみてください。花は半八重~八重咲きで、咲きはじめは淡い紅色でのちに白色に変わるとのことです。

夙川沿いの桜や松、夙川の流れが田辺聖子の『女の日時計』や宮本輝の『青が散る』といった文学作品の中に美しく描かれています。夙川の素晴らしさを桜並木の中を歩いていると作品の中に入ったかのように実感できます。

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旧浪合村宮の原で戦死した後醍醐天皇の孫尹良親王の故事に因む。信州阿智村「御所桜」

御醍醐天皇の孫、尹良(ユキヨシ)親王が暮らした旧浪合村・浪合宿の語源は「並合」。それは家並が軒を重ねあって賑わっていたことに由来し、中馬海道を通る人馬が並び合ったからだともいわれています。

浪合が御所の里を標榜しているのには理由があります。南北朝動乱の時代、南朝勢力の挽回に奔走され、室町時代の応永31年(1424)8月15日、上野国から三河国に赴く途中、浪合の地で北朝方の敵軍に襲われこの浪合村宮の原で戦死した後醍醐天皇の孫尹良親王の故事にちなんでおり、この桜もそれゆえ「御所桜」といわれています。

どこからみてもほぼ同じ樹型をしておりなかなか見ごたえがあります。