平家落人伝説の山里に大輪の花を咲かせる三重県南伊勢「横輪桜」

現在の横輪町は、昔勢州伊勢の国・覆盆子谷(一宇郷)と言われた平家の谷と知られている。1185年、平清盛の四男・知盛は兄弟の中で最も勇ましい武士であったが、壇ノ浦の戦にて源氏に敗れ、自害したと伝えられているが、確かな証拠はなく、従者30人と共に平家の再興を願い、南海より伊勢の船江に上陸し、伊勢平氏の所縁により、外宮の長官・横地光忠の保護を受け、前山から鷲嶺の険しい山を越え、この地に隠れ住んだと言われており、地元には平家の落人伝説が多く残っている。横輪町は今では見かけなくなった懐かしい日本の原風景がここにあり、南北を山に囲まれ、その中ほどを横輪川が蛇行する典型的な山里です。「横輪桜」は横輪町にのみ存在することからこのように呼ばれています。

2012_0415_073814-P1020329

この桜は今から約150年前、江戸時代後期に地元の弘化山桂林寺にあったものを、村人が各家に持ち帰り増やしたものとされている。大きな特徴はおしべが変化し、花びらとなり 開花と同じくして葉も付き始めることです。開花時期はソメイヨシノより数日遅れ、花の大きさも2~3倍大きく濃いピンク色の大輪が年を重ねるごとに増え、15年くらいたつと12枚ほどの花びらをつけるものもあるとのことです。

2012_0415_081646-P1020338

太閤秀吉の行った壮大な醍醐の花見に思いを馳せる。京都醍醐「太閤のしだれ桜」

京都における桜の名所の一つ、世界遺産・醍醐寺はあの豊臣秀吉が慶長3年(1598)「醍醐の花見」を行ったことでも良く知られており、「花の醍醐」と呼ばれていて、広大は境内には約1000本の桜が咲き乱れ、桜の名所100選にも選ばれている。
醍醐寺は醍醐山全山を寺域とする京都屈指の大規模寺院で、真言宗醍醐派の総本山である。伽藍は山上の上醍醐と山下の下醍醐に分かれ、80余の堂塔が立つ。貞観16年(874)に修験道中興の祖である理源大師・聖宝が上醍醐に草庵を結だのが始まりであり、豊臣秀吉が再興した。平成6年(951)世界文化遺産にも登録されている。

2015_0404_075640-P1060726

山門から桜並木の長い参道に迎えられるという贅沢さである。参道の左手には三宝院、右手には霊宝館があり、参道を進むと仁王門が現れる。三宝院の向かいに延びる霊宝館入口沿い参道の両脇には桜が満開。

2015_0404_075450-P1060725

参道左手の塔頭は醍醐の花見の中心として行われた「三宝院」である。醍醐寺の塔頭の一つで、定賢、義範、範俊の三人の師から法を授かった醍醐寺第14世座主・勝覚僧正が永久3年(1115)に創建したもので、その後、鳥羽法皇の御願寺になる。そんな三宝院の玄関脇には見事な”大紅しだれ桜”がある。それが「太閤のしだれ桜」で、JR東海CMで撮られているのである。奥村土牛画伯の代表作「醍醐」のモデルになった桜でもある.

 

2015_0404_092047-P1060739

 

見応えある桜並木が続く名古屋随一の桜の名所愛知「山崎川四季の道」

名古屋市内の主要な川の一つである山崎川は、全長13.6KM、流域面積は26.6KM。千種区の北東部にある猫ヶ洞池を水源とし、途中昭和区で五軒家川が合流し港区の名古屋港に注ぐ。山崎川は造られた川ではなくもともとあった川で多くの歴史がある。「山崎川」は「日本の桜名所百選」に選ばれた桜の名所です。

2013_0330_132415-P1030011

石川大橋から南にかなえ橋がありここから鼎小橋を望むと川に桜並木がせり出し見ごたえがある。鼎小橋は木製の橋でこのあたの桜は樹齢のいっている古木が多く見ごたえがる。

2013_0330_133908-P1030018

文学作品の舞台にもなった夙川の桜ロードを歩く!兵庫西宮「夙川公園」

古くから多くの文人が好んで住み、数々の文学作品の舞台になった閑静な住宅街・兵庫県西宮市。この町を南北4Kmに渡って流れる夙川には、「日本さくら名所100選」に選ばれている夙川公園が整備されており、春、夙川沿いの桜並木が一斉に咲き誇ります。

2014_0405_072329-P1040498

兵庫県西宮市の閑静な住宅街を流れる夙川沿いが、4月美しい桜並木に変身します。日本さくら名所100選に選定されている夙川河川敷緑地とも呼ばれる「夙川公園」。南は阪神香櫨園駅から北は阪急苦楽園口駅間の全長約3KM、約2300本の桜が一斉に咲き誇り、うららかな春の陽射しを浴びて川面を薄紅色の染める姿が格別なのです。

2014_0405_072754-P1040504

ソメイヨシノやオオシマザクラに混じって「夙川舞桜」という夙川周辺のサクラから自然交配によってできた西宮生まれのオリジナル桜があり、探してみてください。花は半八重~八重咲きで、咲きはじめは淡い紅色でのちに白色に変わるとのことです。

夙川沿いの桜や松、夙川の流れが田辺聖子の『女の日時計』や宮本輝の『青が散る』といった文学作品の中に美しく描かれています。夙川の素晴らしさを桜並木の中を歩いていると作品の中に入ったかのように実感できます。

2014_0405_072123-P1040496

旧浪合村宮の原で戦死した後醍醐天皇の孫尹良親王の故事に因む。信州阿智村「御所桜」

御醍醐天皇の孫、尹良(ユキヨシ)親王が暮らした旧浪合村・浪合宿の語源は「並合」。それは家並が軒を重ねあって賑わっていたことに由来し、中馬海道を通る人馬が並び合ったからだともいわれています。

浪合が御所の里を標榜しているのには理由があります。南北朝動乱の時代、南朝勢力の挽回に奔走され、室町時代の応永31年(1424)8月15日、上野国から三河国に赴く途中、浪合の地で北朝方の敵軍に襲われこの浪合村宮の原で戦死した後醍醐天皇の孫尹良親王の故事にちなんでおり、この桜もそれゆえ「御所桜」といわれています。

どこからみてもほぼ同じ樹型をしておりなかなか見ごたえがあります。

 

山にかかった霞と見まごう、桜の渓谷。岐阜池田町「霞間ヶ渓」

国道256号から157・303号で揖斐川町に、そこから417号(西濃こでまり街道)で池田町にある「霞間ヶ渓公園」があります。霞間ヶ渓はかつて鎌ヶ谷と呼ばれていて、古くから池田山の東斜面にヤマザクラ、シダレザクラ、エドヒガンなど数種類のサクラが谷間に沿って自生している地として知られる桜の名所で天保時代には既に多くの花見客が訪れていたといいます。そこへ大垣藩が治山政策のためにソメイヨシノなどを新たに植樹、更に明治以後も観光開発の一環で、植樹は増え続け、全長2キロメートルの渓谷一帯には約1500~ 2000本のサクラが見られるようになったのです。

この桜が一斉に咲き誇ると、遠くから眺めれば霞が掛かったように見えることから、いつしか「霞間ヶ渓」と呼ばれるようになったとのこと。日本のさくら名所100選にも選ばれているのである。

地元住民憩いの場。名瀑・養老の滝へと続く桜道!岐阜「養老公園」

養老山の麓、養老鉄道養老駅から滝の水が酒に変わったという孝子伝説で知られる名瀑「養老の滝」に至る、「養老公園」内の約2kmの散策路にはソメイヨシノ、ヤマザクラ、ヤエザクラなど約3000本の桜が植えられていて、開花時期には公園一体が薄紅色の桜色に染まります。芝生広場や川沿いにお弁当を広げ、心地よい風にふかれながら心ゆくまで咲き誇る桜を見上げている人が多く、また養老の滝に向かう散策路に架かる渡月橋からの桜の眺めは格別に美しいとのことです。

養老公園は養老の滝を中心に面積約78.6haにも及ぶ広大な公園で秋は紅葉の名所として知られています。

1500余年にわたる花の命を人々の想いでつなぐ日本三大桜。岐阜「根尾谷薄墨桜」

岐阜県と福井県にまたがる美濃の山里。太平洋と日本海の分水嶺となっている白山信仰の霊山である標高1671mの能郷白山の雄大な大自然に守られて、悠然と佇む桜がほころぶと、標高204mの山あいは淡墨色の花衣をまとう風景に染まるのである。

今から1500年あまり前の昔、山奥に隠れ住んでいた応神天皇五世の孫・彦主人王の孫・男大遮王後の継体天皇が、都に戻ることになったとき、村人たちとの別れを惜しんで、尾張一宮から持ち帰られた桜を、次男・桧隅高田王の産屋跡に、お手植えになったとされる「根尾谷の淡墨桜」は、国指定天然記念物に認定された、日本第2の長寿を誇る樹齢1500余年 、樹高16.3m、根回り9.9m、東西の幅が26.9mの巨木で、日本三大桜の一つとされている。

この時に詠まれた詩が「身の代と遺す桜は薄住(うすずみ)よ 千代にその名を栄盛(さか)へ止(とど)むる」である。
花の色は蕾の時に薄いピンク、満開時に白色に変化。そして、散り際には淡い墨を引いたような色になるのである。これが淡墨桜の名の由来である。作家の宇野千代さんが保護を訴えて活動し、小説「淡墨の桜」を執筆したことでもよく知られている。

遥か奥州に落ち延びる源義経の道中を思い起こす信州阿智「駒つなぎの桜」

阿智村南西部、岐阜県と県境を接する園原は、恵那山の東山裾に広がる山合いの小さな集落であるが、この地は古代・中世にかけて都人におおいに親しまれていた地なのである。その理由は、この地を大宝律令が出された701年に近江国(滋賀県)を起点に「東山道」という都から東国を結ぶ官道が通り、その東山道のなかでも殊に標高1576Mの神坂峠を超える信濃国阿知駅(阿智村)と美濃国坂本駅(中津川市)を結ぶ行程は、およそ七十四里を隔てる最大の難所といわれ、「神坂峠」の存在があまりにも大きかったのではないかと思われる。
都からの旅人にとっては険しい峠を越えた最初の人里、そして東国からの旅人にとっては東国最後の里、それが園原なのである。

2011_0504_113246-P1010766

源義経が奥州下向の折りに、馬をつないで休んだといわれる大きな桜の木が旧道と林道との分岐点に近い水田の端にある。「駒つなぎの桜」といわれ、樹齢は800年を超えると言われるが、樹勢今なお盛んで、見事な樹冠をもたげ悠然と咲き薫る風姿は、牧歌的な田園風景をとびきりなものにしてくれる。難所・神坂峠の麓で多くの旅人の目を楽しませてきたことがうかがえる。棚田が重なる田園風景の中にあり、開花期は」ちょうど田植えの時期。田んぼに水が張られ、水鏡に映る薄紫の桜を愛でることができます。

さくら名所100選に選ばれた、春の棚田に映る美しき三重津市「三多気の山桜」

「伊勢と大和の境の桜 枝は大和に根は伊勢に」古い馬子唄にこう唄われる「三多気の桜」は雲出川と名張川に分水する室生火山郡随一の霊峰大洞山の美しい山を背景に 咲く、山桜の古木並木である。桜の植樹は平安時代の昌泰年間(899年頃)真福院の開祖でもある理源大師が始まりとされ、その後中世にこの一帯を治めた北畠氏の保護を受けたことから千年からの歴史がある。

伊勢本街道真福院までの参道約1.5kmにかけて続く淡紅色のトンネル「三多気の桜」は「日本の桜名所百選」「全国ふれあいの並木三十選」「東海美の里百選」にも選ばれており、山桜ならではのしみじみとした美しさである。

“ú–{÷•S‘IŽO‘½‹C‚̍÷_ed

たおやかな山容を見せる大洞山を眺めながら桜並木をゆったりと歩くと、古木の側にひっそりと佇む茅葺屋根の家、、山桜と透き通った空を映し出す棚田の水面、「三多気の蔵王堂」と呼ばれる古刹・真福院など桜と競演する様々な風景に出会える

ちなみに真福院は平安時代から蔵王権現の霊場として伊勢・大和両国に知れ渡り、在原業平や平清盛なども参籠しているとのこと。